少年は己の鼓動の激しさに気が狂いそうだった。
弾けそうな心の臓の勢いのままにゴクリと唾を飲み込み、刀を握り締めた手を開いて袴に何度もこすりつけた。それでも緊張はほぐれない。照りつける夏の日差しは木漏れ日のおかげで気にならないが、今までに経験したことのない妙な、気持ちの悪い汗が体中から滲み出ている。
茂みの中に片膝を立てて座り、細い街道を見下ろしてどのくらい経つのだろう。蚊に何ヶ所も刺されて、今も正面を横切った虫を払いのけた。
額の汗をぬぐって街道に視線を戻した少年は、ハッと目を見開いて刀を握り締めた。
こちらに向かって歩いてくるのは、旅装束をして腰に刀を差した二人の男。
五尺(約150センチ)を少し超える高さから見下ろしているのに、一人は驚くほど背が高い。編笠を被っているもう一人はその男より頭一つ分ほど小さいが、間近で見ればそれほど低くなさそうだ。背の高い男が編笠の男に身振り手振りを交えながらしきりに話しかけているが、笠を上げるでも相槌を打つでもなく、ただ黙々と歩いている。
近づいて来るにしたがって容貌がはっきりしてきて、刀を握る手にさらに力が入る。
背の高い男は二十二・三だろうか。よく日に焼けていて、健康的な身体をしている。育ちの良いどこかの若君といった品のある整った顔立ちをしているが、しゃべり続けているその顔はよく動いていて、どことなく抜けた印象を受けた。髪と瞳は強い日差しに当たって茶色に見える。もう一人は編笠を目深に被っているので、顔立ちはわからない。バカでかい男の隣を歩いているので、ものすごく華奢な体型に見えた。
間違いない。この二人連れを茂みの中で一刻(約二時間)以上も待っていたのだ。
刀を握り締め、深呼吸を何度か繰り返し、少年は勢いよく立ち上がった。
「かすっ‥‥げっ! うわっわっわぁぁ!!」
踏み出した足を草にとられて、斜面を一気に頭から滑り落ちた。落ちながら体勢を立て直そうと努力したのだが、何回転かして背中に強い衝撃を感じた後、揺れる視線に強い日差しと濃い青空が飛び込んできた。
ホッと息を吐いたとき、晴れ渡った空に男の顔が現れた。
「‥‥ぼうず、大丈夫?」
呆れたような小馬鹿にしたような、苦笑まじりの声をかけてきたのは、背の高い男の方だった。
勢いよく立ち上がると、くらりと数歩よろめいてしまった。何とか踏ん張ったものの、斜面から転げ落ちたときどこか打ったらしく、顔が歪んでしまった。骨折や捻挫はしてないみたいだが、涙が浮かぶ瞳をぎゅっと一度閉じて痛みをこらえ、刀の鞘を抜き放って刀身の先を編笠の男に向けて大声を張り上げた。
「かっ、春日源之丞、覚悟しろっ!!」
そう叫んだ少年は、あまりの情けなさに泣きたくなった。
案の定、背の高い男は面白そうに少年の姿をしげしげと眺めた後、編笠を見下ろして楽しげに言った。
「春日って源之丞って名前なの? なんか似合わない」
「生まれてこのかた、一度もそのような名で呼ばれたことはない」
感情のこもらない、冷ややかな声音だった。
「ああ良かった。源之丞って春日には似合わないもの。でも刀向けられてるってことは、仇討ちってことだよね。身に覚えある?」
「人から恨まれる覚えはあるが、こいつには見覚えがない」
編笠が小さく左に傾いだ。
「うわ、恨まれる覚えがあるなんて、春日ってば意外と鬼畜な極悪人なの? えーそんな悪人と仲良く一緒に旅してたら善良なおれも極悪人に見られちゃうじゃん。そういうことはもう少し早めに言ってくれなきゃ困るじゃんよー」
息をつく暇もない勢いで繰り出される子供じみた口調と言葉に、少年は唖然とした。六尺(約181センチ)を超える見事な体格と育ちのよさが滲み出た端正な顔立ちをしているのに、口から飛び出す言葉の数々は十の子供と大して変わりない。
編笠の男は慣れているのか、まるっきり無視して口を開いた。
「敵討ちならば己の名を名乗り、晴らしたい罪を明らかにしろ」
冷ややかで命じることに慣れた口調が気に障った。
刀身を編笠の男に向けたまま、情けなさとむかつきを吐き出す勢いで、大声で叫んだ。
「オレの名は田上源吾。父、彦左衛門を斬殺し、逃走したことはわかってるんだ。春日源之丞、オレと正々堂々勝負しろっ!!」
ぴしりと宣言して、源吾は少しばかり満足した。本当は颯爽と登場して、相手の顔と名を確認してから自分の名を名乗り、勝負しろと言い放つつもりだったのだが、まさか敵の目の前に転げ落ちて、小馬鹿にされながら口上するとは思ってもみなかった。
なんとか様になっただろうか。そう思った先から不安がよぎっていく。
刀を向けられている男は、十秒ほど身動きしなかった。それが源吾には死ぬほど長く感じられた。刀を持つ腕が不安で震えている。
編笠の男はなにやらため息を一つ落としてから、顎で結んでいた紐を解いて、笠を取った。
「おまえの探している顔は、これか?」
あらわになったその顔を見て、源吾は目を見張った。前もって春日源之丞が十代後半で、美貌の男だと情報を得ていたが、まさかこれほどだとは思わなかった。
初夏の強い日差しに照らされた肌は雪のように白く、少し切れ長の大きな瞳は夜空を切り取った闇色。美しい鼻梁と紅色の唇がおさまる小さな顔を覆う髪は頭部で一つに結ばれていて、風に吹かれて揺らめく漆黒の髪は絹糸のように艶やかに輝いていた。完璧といえる整った美貌は、氷のような冷たさと高貴な血筋を感じさせる凛とした清雅さをたたえて、源吾を見ていた。
「あれれ? 源吾君、ひょっとして仇の顔、知らないの?」
背の高い男にそう声をかけられ、我に返った。
父を殺したと思われる相手に見惚れていた自分が恥ずかしい。
「う、うるさい!」
顔を真っ赤にして叫んだ源吾に、美貌の少年(自分より二・三年上だろうか)は静かに聞いた。
「おまえ、どこの家中の者だ」
そう言われて、口上ですっぽかしたのに気付いた。バツの悪さをごまかす為に、ふんぞり返る。
「‥‥福島家だ」
二人の反応は、実に不思議なものだった。美貌の少年は闇色の瞳を何度か瞬かせた後、眉根を寄せてなにやら思案する顔をし、長身の男は最悪、とつぶやいて空を見上げてしまった。
福島家は武断派の集団である。当主の福島正則が一撃必殺猪突猛進タイプなので、集まる家臣も似たような性質を持っている。そんな家中の者に仇討ちを挑まれれば、警戒するか必死で弁明するかのどちらかだと思っていたのだが、この二人はそのどちらでもない。
続く沈黙照りつける初夏の日差しに耐えられなくなり、
「とぼけるのもいい加減にしろっ!!」
と、叫んだ源吾と長身の男の視線がぶつかった。茶色の瞳は少し笑いを含んでいるようで、むかつく。
「ああ、もうそんな無理しなくていいよ。源吾君、荒事っていうか剣術とかそういった武芸、あまり得意じゃないでしょ。さっきから腰引けちゃってるよ」
図星を指されて、一瞬で頭に血が上った。
「‥‥う、うるさいっ!!」
そんなこと言われなくてもわかっている。今も刀を持つ手が震えているし、全身から冷や汗が溢れ出ている。
「あらら、自覚はあるのね。そりゃいい」
何一つ良くない源吾を無視し、男は邪気のない笑顔でしゃべり続ける。
「ほらその刀、もう鞘に収めたら? 腕がもう限界でしょ」
にっこりと笑った男の顔を見て、源吾は美貌の少年に向けていた刀を勢いよく地面に突き刺した。
「‥‥くそっ!」
情けなくて悔しくて、地面を見つめたまま奥歯を噛み締めた。柄を握ったままの腕は痙攣したように震えていて、流れ出た汗が地面に黒いシミをいくつも作り、緊張から開放された体は荒い息を繰り返し、その全てが武芸に向かない未熟者の証拠なのだと、容赦なく自分に訴えている。
「あ~あ、可哀想に」
男の言葉は軽いだけに、心をえぐる。
「君さ、福島家って言ったよね。それでなんとなく想像がつくんだけど、君の父上は刀や槍の腕を磨くより、そろばん弾いたり書を書いたりする時間が長い仕事だったんだろうね。どういう状況かわかんないけど、父上はその春日源之丞という小童にあっけなく殺されちゃったわけだ。それを知った頭に血が上りやすい傍若無人な殿様が「家中の恥である」とかなんとか理不尽なこと言って、仇討ちしなくちゃいけない状況に追い込まれて、これまた武芸がからっき苦手な君がこうやって刀抜いてみたものの、あまりの不甲斐無さに自己嫌悪の海で溺れてるってわけだ。 違う?」
源吾はのろのろと顔を上げた。
男の満足そうな顔を見て、源吾は口の端を持ち上げて笑ってみた。その途端に全身の力が抜けて柄から手を離し、地面にぺたりと座り込んでしまった。
まったくもって、その通りなのだ。
男の言ったことは、なにもかもがその通りだった。
汗なのか涙なのかわからないものが、地面にいくつも黒いシミを作っていく。
あまりにも情けなすぎて、源吾は声を上げて笑うしかなかった。
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